16-12-28 : となりの弁護士「現代社会と『時間どろぼう』」(弁護士 原 和良)

1 昨年は、電通で入社したばかりの女性社員が、長時間労働と職場でのパワハラ・セクハラによりうつ病自殺に追い込まれ、労災が認められるというショッキングなニュースがあった(自殺したのは一昨年の12月のことである)。

この事件は、電通で旧態依然とした労働環境がまかり通っていることを世に明らかにしたもので、企業の社会的責任は厳しく追及されるべきであろう。

しかし、同時にこの事件は、もちろん電通だけにとどまるものではなく、戦後70年余を経ても、社会的に精神的に「貧困」なままの日本そのものを象徴する事件でもあった。

2 ドイツの児童作家であるミヒャエル・エンデの本で「モモ」というのがある。施設から逃げ出した少女モモが、人間から時間を奪っていく『時間どろぼう』と勇敢にたたかい、失われた時間を人間たちに取り戻すファンタジーである。

この物語の一節に、次のようなくだりがある。

「不幸な人、悩みのある人がいたとします。おれの人生は失敗で、何の意味もない。おれは何千万もの人間のなかのケチな一人で、死んだところで壊れた壺とおなじなんだ、別の壺がすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうって違いはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えを打ち明けたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことに自分が間違っていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界中の人間の中で、おれという人間は一人しかいない、だからおれはおれなりに、この世の中で大切な者なんだ。こういう風にモモは人の話が聞けたのです。」

この物語は、1973年に発表された作品であるが、悲しいことに40年以上たった今の日本を告発し風刺する作品となっている。『時間どろぼう』は、今の日本でこそ追放されなければならないし、傷ついた人々の心を癒すために、たくさんのモモが必要とされている。

3 『時間どろぼう』を撲滅するには、日本人自らが、たたかわなければならない。昭和初期に活躍した哲学者和辻哲郎は、『風土』の中で、次のようにいう。

「『家』を守る日本人にとっては、領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅かさない限り痛痒を感じない問題であった。よしまた脅かされても、その脅威は忍従によって防ぎえるものであった。…それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって闘争的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるものである。」

公共的なるものへの関心がますます薄れ、忍従は限界にきている。この一年はデモクラシーの興隆を期待したいものである。

(*)ヨーロッパの生活様式のこと

以 上

(弁護士原 和良「となりの弁護士」「オフィス・サポートNEWS」 2016年12月号掲載)

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