22-04-28 : となりの弁護士「ふるさとを返せ津島原発訴訟の『ふるさと』とは」(弁護士 原 和良)

1 2011年3月11日の震災に伴う福島第一原発の放射能汚染事故により、地域全体が未だ帰還困難区域となっている福島県双葉郡浪江町津島地区の住民約700人(全人口の約半数)が、地域の原状回復(放射線量低下義務の確認と低下請求)を求めて、国・東京電力を被告として提訴した津島原発訴訟は、2021年7月30日、福島地裁郡山支部で、国の責任を認め、東京電力に一定の損害賠償義務を認めたが、確認請求は、棄却し、低下請求は却下した。
 原告らが回復を求める「ふるさと」とは何なのか、Kさんの証言から紹介する。

 

2 Kさんは、酪農の魅力に取りつかれ、20歳の時に津島の酪農家の家に嫁いだ。子宝に恵まれ、3人の子どもを育てた。夫は、酒癖が悪く、酒を飲むとKさんに暴力を振るう日々が続き、Kさんは、離婚を決意する。子どもは、6歳、5歳、4歳の時である。
 離婚した夫からの経済的な支援は全くない。Kさんは、女手一つで子どもたちを育てるため、地元の弱電関係の職場、縫製工場、鉄鋼作業所などで一日15時間、働いた。
 それでも、死にたくなるほどの貧乏生活だった。ある日、Kさんは、3人の子どもを道連れに心中を決意する。「みんな死んで楽になろう」と子どもたちに話すと、長女は、「私は死にたくない、おなかが空いても私はがまんする」と答えたという。はっと目が覚めたような気持になり、Kさんは無理心中をとどまったという。
 津島では、Kさん一家の境遇をみんな知っていた。ひもじい子どもたちに、おにぎりをあげたり、仕事を終えて夜遅く帰って来るKさんに代わって食事を差し入れてくれたり、野菜やコメを分けてあげたり、津島の人々は何の見返りも求めずKさん家族の生活を支えてくれた。こうして、3人の子どもたちをりっぱに育て上げたKさんは、今津島の生活を振り返る。
 「貧乏だったけど、つらかったけど、私は不幸ではなかった。津島の仲間たちが、自分と子どもたちを育ててくれた。今は、避難先で心を開いて話ができる知り合いもいないので、誰ともできるだけ話をせず、猫をかぶって生活している。津島での生活は私の人生そのもの。津島に戻って人生を終わりたい。」

 

3 たたかわなければ、自分たちのふるさとは、地図から消され、歴史から葬られ、原発事故は人々の記憶から消されてしまう。
 そのたたかう姿は、戦火にあるウクライナとも通じるところがある。
 子や孫にふるさとを承継するために、住民たちはたたかいを続ける。津島訴訟は、仙台高等裁判所に舞台を移し、たたかいは続く。

 

以上

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