1 元エリート裁判官である瀬木比呂志氏の著書「絶望の裁判所」が業界では話題になっている。最高裁判所によるガチガチの管理体制の下、裁判官は日々の事件処理に追われ、憲法にしたがって、自分の自由な判断ができない状態にあるという。
今から60年前の1954年、自民党の改憲策動と再軍備の危機の中で、若手の法律家、研究者らは平和憲法を守ろうと青年法律家協会を結成した。多くの裁判官がその趣旨に賛同し、同協会に加入した。60年代には、公務員の労働基本権、教科書裁判での教師の教育の自由と子どもの学習権を認める判決、自衛隊や安保条約の違憲を断じた画期的な判決が続いたが、これら多くの画期的判決を出した裁判官の多くが青年法律家協会の会員であったため、魔女狩りが始まる(いわゆるブルーパージ)。やがて、良心的な裁判官は、人事制度の中で少数派となっていく。20年間、弁護士として裁判をやっていると、いつも「絶望」にぶち当たるが、それは、この国の司法の歩んだゆがんだ歴史とは無関係ではない。
2 そんな中、福井地方裁判所(樋口英明裁判長)は、5月21日、関西電力に対し、大飯原発3、4号機の運転差止めを命じる判決を言い渡した。
この判決は、福島第一原発事故後の原発差し止め訴訟としては初めての判決である。これまで、幾多の原発差し止め訴訟が提訴されてきたが、2006年に志賀原発2号機差し止め訴訟で、一審金沢地方裁判所(井戸謙一裁判長)が指し止めを認容した他は、連敗が続いていた(井戸裁判官は、その後退官し今は弁護士として福島原発被害者の救済裁判に献身的に取り組んでおられる)。
樋口コートの判決では、安全のうちに生きる権利である人格権は憲法上の権利であり、これを超える価値は他にはない。原発の稼働は法的には電気を生み出す一手段である経済活動の自由に属し、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきだ、と明快に論じる。福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい、と差し止めを認容する勇気ある結論を導いた。
改めて「司法は生きていた」との感を禁じ得ない。
3 このような人間の顔をした当たり前の判断を下す裁判官が、裁判所内において普通に生活ができるよう、国民として励まし、また妨害に対する監視の目をゆるめてはならない。同時に、原発差し止め、原発被害賠償、冤罪・再審事件、生活保護裁判、ブラック企業対策弁護団、消費者被害、等、膨大な労力を伴う事件は、程度の差こそあれ、弁護士が手弁当ないしは費用持ち出しで担っている。
昨今の司法改革の方向は、このような人権を支える基盤を個々の弁護士の善意に頼って、ことさら自由競争を押しつける。しかし、人権は自由競争では守れない、ことも自明である。
以 上
(弁護士原 和良「となりの弁護士」「オフィス・サポートNEWS」 2014年5月号掲載)