1 日本国憲法19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と思想・良心の自由を規定し、21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定し、表現の自由の保障をうたう。思想・良心は人の心の内面的自由であり、表現の自由はその外面的表出の自由である。憲法は様々な人権保障を規定するが、これらの精神的な自由は人権の王様、人権の中で一番大事な人権であると言われている。
何故、精神的な自由権が人権の王様なのか?そこには、アメリカ憲法の深い歴史と経験がある。その真髄は権力者にとって耳の痛いクレームを抑圧することなく市場に流通させることにある。また、自由な表現活動(それは政治的発言だけでなく、文化、芸術的表現も含む)を発して人は人格形成を行い、自己実現ができるわけである。
2 日本では、2009年に政権交代が起こり、民主党政権が確立した。しかし、永田町は今、まさに「右往左往」状態である。官政権に対する党内外の批判も強い。倒れ掛かっていた官政権は、3.11大震災により一時期息を吹き返したかのようだった。自民党はじめ野党は震災と福島原発被害に対する官政権の対応を批判する。確かに、弱点はあるだろう。しかし、震災対策や原発推進政策は、自民党を中心とした戦後の55年体制の結果である。人の政策の不祥事を必死に対応しているのが官政権である。
週刊誌をはじめとしたマスコミの官政権こきおろしに対しては、どうも違和感を覚える。国家の危機に対して必死の取り組む彼らの姿は私は経緯を表したいし、できる限り支えたいという気持ちである(ただし、原発・放射能問題でのこの間の対応は、国民に知る権利が保障されているのか、生命・身体・健康という一番大事な人権を全力で守ろうという意思があるのか、次第に懐疑的な気持ちが強くなってきた。)
それでもこのように歯に衣を着せぬ権力批判がまかり通ることも、表現の自由が尊重されている国であるという点では評価されねばならない。
3 この6月、最高裁では卒業式での君が代斉唱起立を強制する職務命令は、思想・良心の自由を侵害せず、合憲であるとの判決が立て続けに下された。大阪では橋下知事が、日の丸・君が代条例を府議会で可決させた。最高裁判決での宮川光治判事(弁護士出身)の少数意見は光り輝く。
「精神的自由の問題を多数者の視点から考えるのは相当ではない。割り切って起立し斉唱する者もいるだろう。面従腹背する者もいるだろう。起立はするが声を出して斉唱しない者もいよう。深刻に悩んだ結果として、あるいは信念としてそのように行動することを潔しとしなかった場合、その心情や行動を一般的ではないからとして過小評価するのは相当ではない。」
表現の自由とは何か。市場に流通しない、抑圧される表現の自由を保障することに意義がある。
この国で、本当に個人の尊厳や思想・良心、表現の自由が大事にされているか。考えさせられる判決である。
以 上
(弁護士原 和良「となりの弁護士」「オフィス・サポートNEWS」 2011年6月号掲載)