テレビカメラの前で、社長以下の役員が深々と頭を下げる姿は、今や見慣れた光景となってしまった。最近では、ミートホープや赤福、「白い恋人」という賞味期限の偽装問題が記憶に新しいが、これは氷山の一角で、業界内部に詳しい人に言わせると「どこでもやっていること」だというから恐ろしい。われわれは、安全な物を食べているのではなくて、安全という作られた安心感を食べているのである。
名門企業の不祥事が続発し、企業のコンプライアンス(法令遵守)が話題になり、また商法改正による企業監視も強化されつつある。しかし、コンプライアンスとはあくまでも違法なことをしないという最低限のルールを守りましょう、ということだから、法令遵守を企業の売りにすること自体、本当は情けない話なのである。
むしろ、企業や経営者にとって問われているのは、コンプライアンスを前提に、どう社会に貢献する価値ある企業であるかだろう。最近はやりの横文字言葉に、CSR(Corporate Socially Responsibility)という言葉がある。「企業の社会的責任」と和訳されているが、その中味は使う人によってまちまちである。日本経団連によると、「国、地域によって考え方が異なり、国際的定義はないが、一般的には、企業活動において経済、環境、社会の側面を総合的に捉え、競争力の源泉とし、企業価値の向上につなげることとされている」(HPより)というが、わけがわからない。
カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインの著書「No Logo(ブランドなんかいらない)」では、途上国で2ドルの賃金で作られたナイキのスポーツシューズを150ドルで売る多国籍企業のブランド戦略を告発する。途上国の児童労働を放任して作られた「エア・ジョーダン」のシューズを買えない黒人系の少年が、それを履く白人少年を殺害するという事件がニューヨークで発生した。この告発を契機に、ナイキの社会的責任を問う世論がアメリカ中に巻き起こり、ナイキは多国籍企業戦略の修正を余儀なくされたという。
地球温暖化問題をはじめ国際環境問題や飢餓と貧困の問題、児童労働やジェンダー差別など国際的な人権問題は、企業がその社会的責任を自覚しない限り解決しない。われわれ市民としては、責任を自覚する企業こそを育てる見識と勇気を持ちたいものである。
以 上
(弁護士原 和良「となりの弁護士」2007.11掲載)