14-08-01 : 法律コラム第4回「少年事件を前にして私たち大人は何をすべきか」(弁護士 田畑 智砂)

1.   昨今また、痛ましい少年事件が連日のように報道されている。まずご遺族の皆様には心からお悔やみを申し上げたい。

2.   ご存知の通り、犯罪を犯した少年には、少年法が適用される。少年法における「少年」とは20歳に満たない者を言う(同法第2条第1項)。なお、少年法では性別を問わず、男の子でも女の子でも「少年」である。

3.   少年法は、少年に対し、大人と違う手続を定めている。例えば、検察官は、犯罪の嫌疑があると思われる少年事件を家庭裁判所に送致することとしている(同法第42条第1項、全件送致主義)。少年は家庭裁判所の決定に従い、少年審判を受けることになる(同法第21条)。もっとも、一定の重大犯罪については、送致された少年事件を検察官に対し「逆送」することができ(同法第20条第1項)、更に故意の犯罪行為によって被害者を死亡させた事件であって、その罪を犯したときに16歳以上の者については、逆送しなけばならない(同条第2項)。逆送された事件については、大人の刑事事件と同様に刑事裁判となるが、この場合でも大人と同様の刑罰が下されるわけではなく、例えば罪を犯したとき18歳未満の少年に対しては、死刑をもって処断すべきときは無期刑にし(同法第51条1項)、無期刑をもって処断すべき場合でも、10年以上20年以下の有期刑することができるとしている(同条第2項、なお2014年改正により有期刑の上限は15年から20年に厳引き上げられた。)。また少年の実名による報道や本人と分かるような報道、写真等の掲載も禁止されている(同法第61条)。

4.   少年法が、なぜこのように大人と違った手続を罪を犯した少年に用意しているかといえば、ひとえに少年の持つ「可塑性(かそせい)」にある。「塑」とは粘土を意味し、「可塑」とは粘土のようにぐにゃぐにゃと変化が可能であると言う意味である。少年はまだ生まれて10数年しか経っておらず、人格も未熟であり固まっていないので、適切な教育及び環境調整を行えば、まるで粘土の塑像のように生まれ変わり、やり直すことが出来ると言う理念に基づいている。このため、罪を犯した大人には刑罰が科されるのに対し、少年に対しては人生をやり直し、「健全な育成」を図るための措置が下されるのが原則とされているのである。

5.   しかしながら近年、少年に対する刑罰化厳罰化を求める声が大きくなっている。その理由は様々である。被害者感情を重視して応報刑を望むご意見、少年を特別扱いすべきではないというご意見、厳しくすれば犯罪の抑止になるというご意見等々。ただここで一点申し上げたいのは、法務省の「犯罪白書」によれば、1980年代をピークにして少年犯罪は減少しているのであり、殺人強盗放火などの重大犯罪に限って言えば、ピークであった年の四分の一以下まで減少している点である。すなわち昨今少年犯罪が増加又は凶悪化しているという事実はないのであり、少年犯罪の増加及び凶悪化を厳罰化の理由とすることは誤りである。おそらくこれは重大少年犯罪が発生すると、繰り返し大々的に報道されるため、少年犯罪が増加し凶悪化している印象を受けてしまっているのではないかと思われる。

6.   罪を犯した少年を厳罰に処すれば、それで全てが解決するのか。私は、現代の日本社会がどんどん過ちを犯した者に対し寛容性を失っているようで、危惧感を感じている。それは、罪を犯した大人に対しても同じだ。犯罪者のレッテルを押して、社会から隔絶してしまう。理解しがたいモンスターとみなして、「なかったこと」にしてしまう。その人、その少年が今後、やり直し、生まれ変わる可能性があることに期待し、手を差し伸べようとしない。それで本当にいいのだろうか。社会復帰の難しさが再犯率を高めてしまってはいないだろうか。

7.   少年事件を犯してしまった少年は、自分が虐待を受けていたり、ネグレクトされていた等、その生育過程に問題があったケースが多い。私が担当した少年も、再婚した母親から育児放棄され、小学生低学年の頃から毎日ずっと一人でコンビニ弁当を買って食べていた。親の愛情を知らずに育ったため、他者との関係がうまく築けず相手を傷つけてしまった子、自分に自信が持てずに犯罪に走ってしまった子。彼らが必要としているのは、犯した罪に対して刑罰で懲らしめることではなく、もう一度、「育ち直す」機会を与えることなのではないか。もう一度、人から愛されることで自分に自信を持ち、人と信頼しあうと言う関係を学びなおすことなのではないか。マザーテレサは「この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。」と言った。私もそんな風に思うのである。

1989年に国連で採択され、1994年に日本も批准した子どもの権利条約は、子どもの「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」を定めている。この少年たちは、果たしてこれらの権利を親から、社会から享受していたのであろうか。罪を犯した少年を目の前にしたとき、私はこの社会の矛盾を感じざるを得なくなる。世の中の矛盾は弱い者へ弱い者へと集中する。しかし弱者である少年は無力であり、この世の中の矛盾を正すことは出来ない。言ってみれば少年事件はこの社会の縮図である。少年達は、わずか10数年前に全く罪のない赤ん坊として生まれたばかりである。私たち大人は、罪を犯した少年を懲らしめることよりも、彼らに「育ちなおす」機会を与え、もっと社会の根本的な害悪と向き合うべきではないだろうか。

以 上

(文責 弁護士 田畑 智砂)

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