1 フランスの大学入学資格試験(バカロレア)の必須科目の哲学の問題である。
1問目「我々の道徳的信念は経験に立脚しているか?」「欲望は本質的に限りがないのか?」「我々は常に自身が欲するものを知っているのか?」「歴史を学ぶことが我々にとって利益があるのは何故か?」「より少なく働くことはより良くいきることなのか?」
2問目「マキャベリ『君主論』について解説せよ。」「ハンナ・アーレント『真実と政治』について解説せよ。」「ルネ・デカルト『哲学原理』について解説せよ。」…。
1問目について2つ、2問目について1つを、4時間の制限時間で論述する方式である。
2 見てわかるように、フランスの大学入学資格試験は、明らかに、知識ではなく受験者の思考力を問う問題である。
受験者は、自立した個人として、大学で勉強する資格があるか?ということを試したいのであろう。
日本でも、18歳選挙権が施行されたが、日本大学入試と比較してずいぶん違う。日本の受験勉強と大学入試について考えさせられる。
確かに、この試験の回答をどう採点するか、採点者は一苦労であろう。ある日本の大学教授からは、こんな試験を日本でやっていたら、大学研究者は今でさえも研究と大学経営の諸雑務で死にそうなのに、大学そのものがつぶれてしまう、採点者の主観が入り込まない知識のレベルを図る日本式の○×を主体とした試験の方がよっぽど公平である。思考力は、知識を前提にして大学で鍛えればよいとの意見をもらった。
確かに、それも一理あるが、大学や学問、人生に関する考え方の違いが背景にあるようにあると思う。
3 大学入学後の社会人としての仕事と人生を考えた場合、○×で解決する仕事は少ない。知識の詰込みで乗り切れる仕事は少ない。というか、○×で解決できない仕事こそ仕事であり、その時にどう対処するか、その人の真価が試される。人生、○とも×とも割り切れないで、その中でより○に近い△を選択して理想と現実のはざまで日々を送っている。
戦後の教育と企業社会を振り返った時、人を○×で評価し序列化し、単純化し、考えるプロセスを横着して省略してきたのが日本の戦後の負の側面ではないか?
○×思考だと、個々人の個性を認めるとか、違う意見を受容する、少数者の意見に耳を傾けるという発想は育たないのは明らかだ。
4 繰り返しになるが、バカロレアは、回答も難しいが、採点も難しく、採点者の力量が問われる。日本では、大事な選挙が続く。候補者にインテグリティ(誠実さ)が問われているが、採点者である有権者の力量が問われる。
以 上
(弁護士原 和良「となりの弁護士」「オフィス・サポートNEWS」 2016年7月号掲載)