1 冷や飯を喰う。日本では、社会や組織の中で、強い者に対して異論を唱えたとき、その報復として冷遇されることが多い。冷や飯を喰う、喰わされるとは、そのような処遇を受けることをいう表現である。
今月、自由民主党の総裁選が行われ、安倍政治に異論を唱えて総裁選に立候補した国会議員とその支持者が、「冷や飯を喰わされる」と話題になったばかりである。
2 ところで、我々弁護士は、職業柄冷や飯を喰わされた人々の弁護人、代理人となることが宿命的に多い。司法、裁判所とは、多数決で決せられる民主主義社会において、多数決で奪うことのできない権利(少数者・弱者の権利)救済のために作られた制度であるからである。もっとも、司法が今本当に少数者、弱者の権利を救済する機関としての役割を十分に果たせているのか、強い者の理不尽な行動を追認する機関になっていないか、国民の信頼に応えられているのかは、実に怪しくなっている。
国や地方自治体が当事者になる行政事件、原発差し止め請求事件、検察官と対峙する刑事(えん罪)事件などでは、良心に従って正義の判断をした裁判官が、その後の裁判官人生で「冷や飯を喰わされる」のは、業界ではいわば悲しい「常識」でもある。
3 多数者の考え方や今の強者の考え方が、正しいかというと、歴史を振り返るまでのなく、否である。
冷や飯を喰いたくなければ、常に多数者、強い者に迎合することが半ば「強制」させられる。自分がどうしたいか、どう生きたいか、何が正しいか、で行動を決めるのではなく、何が多数意見か、誰が権力をもっているか、により自分の行動を決めなければならなくなる。
会社や組織の中でも、異論を唱えたために、左遷されたり出世街道を外されたりというのは、日常茶飯事で、みんな憤りを感じるからこそ、このような冷遇を受けたサラリーマンが、その後大どんでん返しでリベンジを成し遂げる企業小説やドラマは、大人気になるのである。
4 歴史の多くの偉業は、冷や飯を喰わされた人々によって成し遂げられてきたと言っても過言ではない。
アパルトヘイトに反対した南アの故ネルソン・マンデラは、27年間獄中生活を送った後に、大統領に就任し、2013年、95歳で人生を閉じた。
今も、国家の民主化や自由を唱えて冷や飯を喰わされている人は世界中にたくさんいる。
冷や飯を喰う勇気が自分にあるか?というと、イエスでありノーでもあるが、勇気をもって冷や飯を喰わされている人々のことを忘れず、自分の生き方や信念は大事にしたいものである。
以上