1 安全保障法案の審議をめぐって、集団的自衛権の行使は憲法違反か違反でないか、衆議院憲法審議会での3人の学者の違憲論を受けて国会は風向きが変わりつつある。
2 政府は、「切れ目のない安全保障」をうたって法案を国会に提出してきた。しかし、考えてみると、「切れ目」のあることは神が支配する国ではない、不完全な人間がつくるあらゆる組織、システムにとって実は必要なことではないだろうか?
近代憲法は、神に政(まつりごと)を任せるのではなくて、人民を主権者として政にあたらせた方が失敗は小さくてすむ、という人類誕生以来の失敗の教訓から導かれた結論である。日本国憲法も近代憲法の一つであるが、その中には、権力が一人(一部の集団)に集中して大失敗を招かないように、たくさん「切れ目」を準備している。
3 一つは、三権分立という立法(41条)・行政(65条)・司法(76条)の3つにわざわざ権力を分けてお互いにけん制・チェックを働かせようとしていること。行政国家といわれ官僚組織が大きな権力をもっているもとで、この分立が十分に機能しているのか、また司法がチェック機能を果たせているのかは極めて怪しいところであるが、少なくとも建前上はそうである。そして、司法権の独立に関しては、裁判所及び裁判官の独立はもちろんであるが、戦後の司法制度は弁護士の自治権を保障していることの意味は大きい。
地方自治が保障されていることも「切れ目」の一つである(92条)。明治憲法では地方は国(地方)の出先機関でしかなく、知事も天皇の任命制であったことと比較すると大きな違いである。この地方自治の保障がなければ、沖縄の今の辺野古基地移設反対の運動は起こりえなかった。
もう一つ、憲法には「切れ目」があった。学問の自由の保障である(23条)。学問の自由の保障は、その制度的保障として、大学の自治を保障する。今回の国会での参考人質疑で、3名の学者が良心に従って持論を展開することができたのは、この学問の自由の保障と大学自治の保障がまがりなりにも「生きて」いたからに他ならない。
4 安全保障法制のみならず、秘密保護法、マイナンバー制度、盗聴を容認する刑事訴訟法改正、など今国の方向は、「切れ目」をなくす方向に動いていることにきな臭さを覚える。結局それは、異論を許さない監視され統制された暗黒の社会への道にならないか。
「社会を変えるには」(講談社現代新書)で2013年の新書大賞第1位に輝いた異色の社会学者の小熊英二氏は、個人的にも面識のある同世代の思想家である。同書では、組織における人間の役割について、次のように述べている。
「危機のときに、意外な力をみせて全体を救うのは、ふだんは役に立たない余計者だったりします。ある方向に向けて効率化し、無駄や異論をすべて切った組織は、環境の変化や想定外の事態にきわめて弱いことは、組織論では常識です。究極論ではありますが、世の中に『むだな人間』はいません。」(前掲ページ492ページ~493ページ)
5 今、効率化がもてはやされる中で、「切れ目」が社会から排除されている。それは、弱い社会に向かっているのではないか、という問題意識を持つことは決してむだなことではないと思う。
以 上
(弁護士原 和良「となりの弁護士」「オフィス・サポートNEWS」 2015年6月号掲載)