21-10-29 : となりの弁護士「間違うこともあるさ。人間だもの」(弁護士 原 和良)

1 最高裁判例集に多数の誤りが発見されたとして業界では話題になっている。報道によると調査対象となった著名判例12件だけで、119箇所の誤りがあったという。その内訳は、「脱字12,助詞の間違い6,句点19,助詞の誤字1」などなど。
 意味が通じれば、句読点が間違っていようと気にすることないじゃない、と私のような大雑把で、いい加減な弁護士はそう考えてしまうのであるが、最高裁はショックを隠し切れず、「パンドラの箱が開いた」「歴史が変わるかもしれない」と大騒ぎとなっている。

 

2 今でこそパソコンが普及し、デジタルデータで判例検索ができる時代になってはいるが、大審院時代から、判決書は手書きであり、人間のやる作業である以上誤りは不可避である。何も目くじらを立てるほどのことではない。
 誤りは訂正すればよいだけの話ではないか。国家は誤りを犯してはならないという、明治政府以来の無謬主義とお役所の生真面目さを感じたニュースであった。
 他方で、公文書を改ざんしてしまうお役所もあることと比べると、どうしてこれが大事件なのか不思議でたまらない。

 

3 最高裁判所の判例は、事実上地方裁判所や高等裁判所などの下級審の裁判所を拘束する。そのため、フレーズの遺脱や「てにをは」の間違いが、下級審裁判所や我々弁護士の実務に多大な影響を与えることが危惧されている。
 しかし、著名な刑事えん罪事件や国家政策が問われる行政事件などに限らず、私たち弁護士は、「てにをは」レベルの問題ではなく、裁判所の時代感覚や人権感覚、事実認定など根幹部分で、過ちを犯し 、三行半の「上告棄却」「上告不受理」の決定をもらい、悔しい思いをすることはしばしばある。 
 これこそが不正義であり、本来そのことが今我が国の司法に問われているのではないか、と思わざるを得ないのである。

 

4 本来、近代憲法である日本国憲法は、権力者の暴走を止めるため、権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれの権力が互いに監視し合うという制度を採用している。しかし、行政が肥大化し、立法府において政権交代が進まない中で、司法は戦後一貫してものが言えないおとなしい三男坊としての立場に甘んじてきた。
 憲法判断には消極的で、どちらかというと行政や立法を追認する判断を繰り返してきたのが裁判所である。
 三権分立とはいいながら、国家予算のうち司法予算は全体の0.3%強しか配分されず、そのために裁判官や裁判所職員の人数は制限され、人権の最後の砦としての裁判所の人権救済機能は不全に陥っている。 
 10月31日の総選挙の日には、15人の最高裁判所判事のうち前回の総選挙以降に選任された11人について国民審査も併せて行われる。果たして、あなたが印象に残っている、信任したい最高裁判事はいるだろうか?

 

以上

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